児童の虐待の報道
児童虐待事件がマスコミに報道されるのは、不幸にもそれが子どもにとって最悪の結果に終わった場合に限られます。逆にいうと、それに至らなければ実態が顕在化しない、あるいは顕在化することが難しい問題、それが児童虐待であるといえます。
それは児童虐待問題の困難さを象徴的に示していることですが、それ故に児童虐待を恣意的に解釈することを許してしまう要因にもなっているのではないかと私には感じられます。つまり、児童虐待事件が起こるたびに先にあげたような家庭環境が大きく取りざたされるのは何らかの意図が働いているように思えるのです。
こうした発言をすると、私があらゆる事象の背景に陰謀の存在を認めようとする陰謀論者のように思われてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。
そうではなくて、私は児童虐待という問題はその背景を生活苦や情痴絡みで捉えるのではなく、違う角度で捉えるべきであると考えるのです。にも関わらず、報道が偏っていることに危惧を覚えるとともに、不幸にも発生してしまった事件を他の目的に利用しようとする意図が働いているように感じるのです。つまり、“あるべき家庭の姿”や“あるべき親子関係の姿”を暗に示そうとするような意図が感じられるのです。
では、児童虐待を“別の角度で”捉えるとは具体的にどのようなことかといえば、私は次のようなことだと考えています。
先ず、加害者及び彼がなした犯罪行為にもっとスポットライトを当てるべきだと思います。児童虐待事件の場合、被害児童に同情と憐憫の感情が集中するあまり、加害者に関する報道がおろそかな印象を受けます。そして、そうした感情的な捉え方から一気に飛躍して被害児童の家庭環境→社会的な背景、そして事件の密室性→行政の対応の困難さへと問題分析が進んでいきます。
しかし、通常の事件ならばもっと加害者と犯罪行為に対する分析が行われているように思います。児童虐待が傷害やその結果、あるいはそれ自体を目的とした殺人事件である以上、犯人である加害者はもっと分析され糾弾されるべきだと思います。報道される児童虐待が犯罪である以上、加害者の行為は社会的に容認できないものであり、その行為及びその心理こそが先ず糾弾されるべきことであるはずです。事件を社会的要因や対応の困難さにのみ求めるような報道は、加害者の責任を薄めてしまうようなことにならないか、私はそれが心配です。